◇ 展示時間:常設展示
◇ 展示場所:徐州博物館3F
兵器は人類の生存利益を守るための道具であり、戦爭の全過程に伴って発展してきました。徐州は、むかしから軍事戦略上の要地で、新石器時代から二百余戦ありました。「九里山前の古戦場、童が古びた刀や槍を拾う」とあるように、錆びついた銅や鉄の兵器は戦爭の血なまぐささと殘酷さを思い起こさせ、重厚で堅固な鎧や兜は將兵たちの壯烈な思いを感じさせます。また、城攻めに使われた明清時代の大砲は、戦火に包まれた時代に人々を引き戻すようです。
徐州で出土した大量の兵器は、血と炎に彩られた徐州の戦爭史そのものです。
第一部 方國兵武(商周~秦の兵器)
原始社會後期から商周時代にかけて、多くの方國が形成されました。生産力の低さから、方國間では限られた資源を巡る爭いが頻発し、兵器の重要性が増しました。青銅兵器は最盛期を迎え、戈、剣、矛、弓矢などが常備の制式兵器となりました。鉄兵器も登場し始め、より強力で殺傷力の高い弩も使用されるようになりました。
徐州は夏商時代には彭國として、春秋戦國時代には宋や楚に屬していました。この時期には、彭伯が邳を攻めた戦い、武丁が彭を滅ぼした戦い、晉と楚の彭城の戦いなどが有名です。
第二部分 漢楚の王師(漢の兵器)
漢の徐州は、華々しい劉氏の封國でした。漢の初め、楚の軍は非常に強盛で、楚王劉戊や呉王劉濞などが連合して「呉楚七國の亂」を起こしました。
多くの漢墓から出土した中尉、騎尉、軽車、武庫などの楚軍の印章、刀、剣、矛、戟、嵌、鎧などの攻防兵器、漢畫の石の中の格闘、蹶張、蘭錡、戦爭などの畫像情報と儀衛俑群、兵馬俑陣は、全方位に漢代徐州の軍事概観を反映しています。
第三部分 陳兵列武 (唐、宋、元兵器)
西晉以降、何度か國境が分裂し、南北が対峙し、干戈が起こり、戦亂が絶えませんでした。「彭城は南北の鎮となり、下邳は東西の要地になり」、徐州は南國の屏藩、北門の鍵となりました。この時期には「長戟は利刃、驃騎は馳突」の具裝騎兵が次第に出現するようになりましたが、北宋初年の火器の出現は、騎兵の優勢を一部相殺し、火器と冷兵器の併用時代の到來をも示しました。
「南北が交錯し、得失が拮抗している」という特殊な歴史環境にあるため、この時期の出土兵器は系統的でないものの、優れた品々が殘されています。
第四部分 堅城利砲(明?清兵器)
明代の徐州は南北二京駅伝の中心地の一つで、運河漕運の拠點でした。明朝の洪武年間に徐州城が築かれ、煉瓦と石で築かれ、同時に軍に配屬される徐州衛と徐州左衛が設置されました。大同街の徐州衛遺跡からは大量の大砲が発見されており、「堅堅固な城壁を頼りに、大砲を用いる」ことが當時の主要な軍事思想でした。
清代の徐州の周囲は太平天國軍や捻軍が頻繁に活動した地域でした。防御の必要から舊市街の外に土城を築き、黃河の北岸に堤防子土城を築き、大量の火器を作るか導入しましたが、その性能は西洋列強のものより大きく劣っていて、遅れれば打たれるという時代の兆しが見え始めていました。
兵器は戦爭の縮図であり、人類の歴史の記憶です。戦爭は人類社會に深刻な破壊をもたらし、人々に深い傷と悪夢を殘します
戦爭が私たちから遠ざかり、人類が剣を鋤に変え、永遠の平和が訪れることを願います。